小さな声
心身の不調に悩む中学生と外出した。その子にとっては先の人生を左右しかねない大事な局面だ。
1.電車
保護者と両サイドを守るかのように電車に乗る。夕方の比較的空いている時間帯だからしばらくしてその子だけ座ることができた。
発作にも近い症状が出るとその子は止まってしまう。
ときおり、苦しそうに眉間にしわを寄せて、意識を保とうとして首を振る。何かを訴えているけれど、電車の放送や周りの会話にかき消されて聞こえない。
家ならば声を発したり、体を揺らしたりして、気を紛らわせるがそれもできずに耐えている。目が涙目になる。楽になるような会話をして、少し気がそれるが、駅が近づくと放送が流れて、ビクッとして途切れてしまう。
一駅一駅が長い。
2.都会の駅
乗り換えのために電車を降りる。
公共交通機関とは名ばかりの弱肉強食の世界。
混乱して立ち止まれば、いらだちを表現しながらぶつかりながら抜いて行く人。スマホをしている人が容赦なくぶつかる。その人たちは誰にぶつかったかもわかっていない。
「私の頭が止まっちゃうから」
その子は自分を責める。
ぶつかってくる人たちに謝ってまわっているみたいだ。個人情報だから詳しいことは書けないが、その症状は本人にはどうにもならない。足がない人が足がないことを責められているのと全く同じ。
「調子が悪いなら街に出てくるな!」
以前、私が不調だったときに言われた言葉を思い出した。
3.涙
裏路地に入って、人がいなくなったら、緊張がとけたのかその子の目から涙が溢れてきた。
僕も泣く。
というわけにはいかないけれどそんな気持ちになった。
「もう、がんばったから、車で帰ろう!」
そういってあげたい気持ちになった。でも、その子はある約束を果たすためにここまできた。最後まで頑張って、自分を褒めてほしい。そう思って言葉をのんだ。
裏路地の日陰は真冬の北風が吹いて、涙が凍りそうな場所だった。
でも、人目がなくて、ホッとできる場所でもあった。
4.ありがとうございます
その子はよく、「ありがとうございます」という。
「いつも迷惑をかけてごめんなさい」そんな意味に聞こえる。僕には「ありがとう」の意味が違うとさえ思える時がある。感謝ではなく、申し訳なさや攻撃しないでという響きの「ありがとうございます」だ。
「本当に心の底からありがとうと言える日が来るといいな」と僕の決意を新たにする言葉でもある。
5.約束と気遣い
その子にとっては命がけといっても良い長旅の末に約束の人と会うことができた。
おろしたてのかわいいクツにおしゃれなネイル。3時間かけた手土産のクッキー。そして、電車移動。
それが報われたら良いなと感じながら遠くで見守る。
その子は普段は頭が良い子だけれど、不調の時には2つのセンテンスが理解できない。指示や質問の部分をとって答えてしまう。例え話を指示と勘違いすることもある。だから、会話が始まったらネイルも手土産のクッキーのことも多分頭から抜けてしまっている。
それでも必死に相手と向き合う。
喉が渇いて、ペットボトルに手を伸ばしても意識が分散してあけられない。ノートを出してもなぜ出したかわからなくなる。
それでもここで会話をしていること自体がその子の果たした約束だから、僕は見守るだけにした。
頑張った!本当に頑張った!
90分ほどのやりとりがようやく終わった。ペットボトルの蓋を開けて差し出すと喉が渇いていたことを思い出したのか、一気に半分飲んでしまった。それほど集中して頑張ったんだな。ほんと。
残念ながら、準備してきたネイルやクツは話題にはならず、クッキーも渡し忘れて帰ってきた。
6.涙とパンケーキ
建物をでて、五歩歩くと、その子は涙を流して立ち尽くしてしまった。全力で頑張っているのに怒られ、否定され、自分で自分を責めて、混乱しての繰り返しは本当に辛いだろうと思う。
もう、つらいという言葉さえ言えないくらい疲れ果てて、しばらく泣いた。もう、ワンフレーズ話すことさえできなくなっていた。
そんな時に近所の家から甘い匂いがしてきた。泣いて泣いて泣いている中でも甘い香りが鼻に入った仕草を一瞬したので、タイミングを合わせて、「なんか、うまそうじゃね?」と話しかけた。
「パンケーキのにおい!」
笑顔が戻った。無神経な通行人に気がいかないように、いろいろな夕飯のにおいをたどって駅に向かった。
ふつうに楽しい散歩のようだった。
7.小さな声
外出するたびに人の優しくなさに触れ、それを自分のせいだと思って、「ごめんなさい」「ありがとうございます」「感謝しなきゃ」と小さい声で言う。
その子は何度も悪いことをして謝っているのではなく、たったひとつの自分ではどうにもならない症状のために謝っている。
1日が終わり、せっかく頑張って守った約束。頑張った自分を褒めてあげる余裕もなく、できなかったことの山に押し潰される。今日は頑張った!よくやった日だ!とはならない。
その子に夢を聞くと、この症状が無くなること。としか出てこない。山のような申し訳ないの奥にほんとうの夢がきっとあるのにそこには辿り着けない。
これからもそんな小さな声を聞いていきたい。
手作りクッキー食べてたら、ホッとして涙が出てきた。