小さな努力の芽をつむ
人はそれぞれのポジションで精一杯頑張っています。自分の見えている世界観の中で精一杯。
1.結果に固執すると個人が否定される
例えば、子どもが100m走ることを目的としていたとします。
100m走ることが簡単な人や大人から見たら「99mでは意味がない」くらいで100mできるかどうかを判断しようとします。
でも、子どもは5mしか走れなかった。 大人は (100mに到達しないから失敗という前提で) 「あと95mがんばれ」といったり「ダメなやつ」という。 あるいは100m走れた人だけを褒めたりする。 こうして5mの子は頑張りや存在を否定される。
こういう子は 5m頑張ったねと褒められれば、6m7mと成長していく。他の人と比べたら遅いかもしれないけれど100mに到達することも無理ではない。
問題なのは期待されたタイミングで100mに到達していない人は「ダメ」な前提で怒られたり、指導されたり、支援されるのだ。
発達障害などはまさに良い例かもしれない。 別の方法で結果に向かっていたり、勝手に決められたタイムリミットまでに成果が出ないから「ダメだ」と決めつける人があまりにも多い。
そして、 その100mに到達することはそんなに大事なことなのか?多くの場合、どうでも良いことだ。誰かが決めたくだらない基準が100mだからだ。それなのに100mに固執するということはくだらないルールを優先して、その人を否定したことになる。
2.学校に行く結果だけ求める親
不登校の子どもが学校に行くためには100も200もある葛藤や不安やコンプレックスを克服しなくてはいけない。自宅の中でうろうろするだけでもできる日とできない日があるのだ。
しかし、「学校に行くこと」「日数が足りること」しか興味がない親や先生はその生徒の1mm単位の努力に気づかない。「学校に行き、日数をクリアしなければダメ」なのだ。
それを無理にしようとして、車に押し込めて学校に通わせたりすることは100も200もある階段を上っている子どもの頑張りや場合によっては存在を否定することと同じだ。
3.人は全員頑張っている
子どもが必死で頑張っているところに大人が大人の基準で評価する。高齢者が必死に頑張っているところを若者が「老害」と言って避難する。障害者が必死に頑張っていることをいわゆる健常者は理解しないで責める。
どれも同じ現象だと思う。 人はそれぞれの立場で必死に頑張っているのだ。
「障害者」という言葉は「産業革命」と共にできたという。おおらかに協力し合っていた人たちは週5日8時間というラインをクリアできる人とできない人とで区別をするようになった。
人はそれぞれ得手不得手がある。でも頑張って最善を尽くそうとしている。
怠けてしまう。頑張れない。それも含めて、その上で頑張っている。 それを他人の物差しで安易に切り捨てたり、評価することがいかに人間の尊厳を傷つけることになるのか?
そして、 小さな小さな努力の芽をつんでしまっているのかを最近改めて感じることがあった。
人は 自分の出来る範囲で頑張っている。それを否定され続ければ生きる意味を見失う。不登校・ひきこもりとはもしかしたらそういう人たちなのかもしれない。