ひきこもりの自立支援は北風と太陽
「自立支援」という言葉はひきこもりではない人の観点で作られた言葉のように思う。そもそも「自立支援」でいうところの「自立」が指しているのは今の日本に適応することではないだろうか?
1.ひきこもり側の観点からの自立支援
世界や歴史を広く見た場合、「自立」にはいろいろな正解があるように思う。
一人で狩りができれば「自立」
経済的に収入を得られれば「自立」
どちらも「自立」
つまりは「自分の力で生きていく」という意味に近いのが「自立」だ。
30年前の「自立」は「終身雇用」「年功序列」の社会で生きていくことを「自立」と呼んだかもしれない。現代ではYouTuberとして生計が立てられればそれも「自立」といえる。
ひきこもりの観点から言うと
「社会が作った自立、それも変化してしまう自立」に適応することを求められる。ということになる。
明治維新後に職を失った「サムライ」は「自立」するためには自分らしくないことをしなくてはいけなかった。今まで必死に磨いてきた剣術などは基本的には役に立たないのだ。明治維新前は「自立」していた人たちのはずだが、、、
2.理不尽を共感
ひきこもり当事者と話をしていると「理不尽だな」と思うことは多い。就職氷河期に「自立」し損ねて、それ以来輪に入れていなかったり、親の介護をしていたら「自立」しそこなってしまったり、、、100%自業自得だというひきこもりは決して多くないと感じる。
さらに社会復帰においても排他的な対応をされることが多い。冒頭でも出てきた「ひきこもっていない人の観点」からみたら運悪く「自立」しそこなった人が悪いのであって、「俺(私)のように頑張ればよかったんだ」と解釈されてしまうことが多い。
実際に8050問題で悩む家庭で話を聞くと
- 「育て方が悪かったですね」
- 「親の責任だと思いますよ」
- 「みんな頑張るべき時期に頑張っているのに甘えていたのでしょう」
そんな風に言われることもあり、「自立」がさらに遠のいてしまうのだという。
3.みんながやっているから正しいの?
私自身もひきこもり8年の経験があるが、人がこの世に生を受けて、
- 20年は理由がわからなくても机上で学んでくださいという社会
- ひとり800万円を超す借金を背負ってくださいという社会
- スマホ見て歩き、スマホ見て運転しますがそういうもんですという社会
- 銀行に預けたお金をクレジットカード会社経由でpaypay決済する社会
これがやりたかったのか?
と思ってしまう。8年もベットの上から社会を見ていると明らかに社会の側がおかしい。サバンナを走り回り、生きていくのに十分な食事と仲間が居る生活があれば良い人にとっては今の社会はあまりにも生きにくい。
生命の歴史を紐解いてもこんなに考えてばかりいる生き物はいないのではないだろうかと思うし、人類の歴史を見ても最近は動かない人が目に見えて増えてきた。
「こんな社会に出たくない」
という意見は間違っているのだろうか?
ひきこもりにそれを変える力はないかもしれないが、今の社会の方が正しいということでもないように「元ひきこもり」としては思う。
4.北風と太陽
ひきこもり側の視点からもう一度「自立支援」を考えたときに北風と太陽の物語に似ているなと思った。北風のように「働くのが自立です!やりなさい!応援しますから!」というのはなんか強引で納得感がない。
ひきこもっている人であっても「生きる動機」は必要だ。
みんながやっていて正しいことになっているからやりなさい。ではエネルギーが出ない。動機がない。
ひきこもり側の観点でも
「生きがいを感じたい」「生きていてよかったと思いたい」「夢中になれるものとであいたい」「人生を輝かせてみたい」というような思いはある。
もしかしたらそれは
いきなり経済活動につながらないかもしれないし、いわゆる「令和の自立」には当てはまらないかもしれない。それでも「生きていてよかった」「これは夢中になれるな」というものに出会い、徐々に社会に近づいていくことはできる。その延長上にいわゆる「自立」がある。これは太陽のアプローチに近い気がする。
5.自立支援は動機付けから
ひきこもりの自立支援は「動機付け」から行う必要がある。
当事者がゲームしかしないならゲームの中から
当事者が布団から出てこないのなら布団の中から始める必要がある。
日本で活動している
サラリーマンに「ドバイに転勤してくれ!」と言ったらその会社を辞めたくなる人もいるのではないだろうか?飛躍があるからだ。
良し悪しはともかく、ゲームが日常の人に「働け」とは「ドバイ」と同じような意味だ。ゲームの世界の中から見えるその人の心の動き、関心、喜び、モチベーションなどを見極めて、例えば「そのゲームにそっくりな仕事」を見つけることができればその人はやる気を出してくれるかもしれない。
自立支援は
ひとりひとりの独特な世界観からスタートする必要がある。
ひきこもりではない人が考えた「自立」を押し付けるのではうまくいかないのだ。