中高生を支えたい思い@秋葉原
秋葉原で学びリンク様主催の合同相談会がありました。今回は色々な親子の相談を受けて思ったことを記事にします。
1.小5から不登校
今回お話しした10何組のご家庭の半分が小5から不登校だという。今、中3だったり、高3だったりと学年はさまざまだが、発端は小5という話が多い。
小5は子どもたちがクラスの様子を理解する年。低学年ならば転校してきてもあまり違和感がないが、小5にもなるとグループができて流動的でもない人間関係ができ始める。加えて、YouTubeなどから情報を得るので世間のことが急激に理解できる。
昔ならばそのあたりから悪い友だちとつるんだりするのかもしれないが、ひきこもるのが現代風なのかもしれない。
小5からこもっていれば漢字が怪しい。分数も怪しい。そんな学力のまま止まっている。一方で無責任な動画をたくさん見てしまう。小学生で起業してという動画を見れば学校に行かなくても良いと考えてしまうのもわからなくはない。親が義務教育の意味もわからずYouTuberを子どもにさせている家庭の情報がバズってしまえば子どもたちはわからなくなってしまう。
2.第三の選択肢
学校に行かない。となるとなにをするのか?
ゲームや動画、同人誌、タレント、、、テーマはさまざまだけれどそれは解決にはつながっていない。気持ちを整えるのには役にたつけれどもずっとそれをしていて良いものでもない。
本人も最初のうちはそれがわかっているけれど、ゲーム漬けになるうちにわからなくなってしまう。
様子をみましょう!
スクールカウンセラーがよく言う言葉だ。この言葉に従って、数年を無駄にし、状況を悪化させている人のなんと多いことか。カウンセラーが言う「様子を見る」とはてづまりを意味する言葉だからだ。
実際に相談に来た生徒の一人も親に連れてこられたと言う態度で心を閉ざし、手にリストカットの跡がたくさんあった。保護者はスクールカウンセラーに様子を見るように言われて3年目だという。試しに僕のリストカット跡を見せて、「かゆくなるよな」と言ったら彼はこちらを見た。かゆくなるのは当事者なら知っている事だからだ。その2分後、彼は将来が心配だけれども何もできずにゲームをしているのだと言う。コンパスというゲームのジャンヌダルクが好きで、他の仲間の回復にまわって、ありがとうと言われるのが嬉しいのだと言う。これは医療福祉の特性だ。ちなみに不登校であっても、こんな働き方(ありがとうと言われる場面)があるよ。といったら目が変わった。
ありがとうと言われるならやれます!
そうなんだよね。何の役にも立たないレポートをやり続けるよりも、これをやってくれたら助かるんだよなーというものをやりたい。当たり前の気持ちだ。
その場でLINEを交換し、夜通し彼とやりとりをした。大学名を選ぶところまで話が進んだ。今の中高生は対面では空気を読んでしまうので、本音がなかなか言えない。だからこそのLINEだ。それも深夜が良い。頭が良く回る時間帯だから。ガンガン話が進む。
学校でもひきこもりでもない第三の選択肢が見えてきた。彼は言う「努力を積み上げる場所を知りたかった」
学校の先生が適当に配ったプリントに命をかけても意味ないのは彼らでもわかる。どこに命をかけたら良いか?それは命をかけて子どもと向き合っている大人にしかみえない世界だ。
3.失敗
人生は生きている限り失敗なんてない。今日学校に行けなかった!と保護者が子どもを責める。
また、失敗した!
と
子どもが何かに挑戦してうまくできない日があると言う
また、失敗した!
と
彼らが25才になり、30才になり、場合によっては60才になった時に完成しなかったけれども途中までやってみた経験は意味がないのか?そもそも大人のほとんどは人生成功したと胸を張って言えるのか?
人生は試行錯誤。
大学に合格したから頭のいい子に囲まれて悩んでしまう人もいる。大学に落ちたから素晴らしい人たちと知り合うことができることもある。なんで、短絡的に成功とか失敗とか言うのだろうと思う。
今回それがなんでだかわかった気がした。
成功した経験や感覚が全くない人の心の叫びが「また、失敗した!」なのだ。教師や保護者、そういう言葉を言って子どもの成功を信じられない人は自分自身に「また、失敗した!」と言い続けている。
呪いの言葉を若者に向けるのはやめた方が良い。成功とは途方も無い失敗のようなものの先にあるからだ。少し試して「失敗した」という人に発言権はない。
自分がやりきってから他人の人生に口を出した方が良い。
ワンピースのルフィは20年越しで海賊王にまだなってないよ!あれは失敗なの?成功への道の途中なの?