農から明日を読む 星寛治(著)
山形県高畠町に縁ができたので、山形県高畠町出身の農民・詩人の星寛治(ほしかんじ)さんの本を読んでみました。
私が生まれた1973年に高畠町有機農業研究会を創設して、生産者と消費者の提携を推進してこられた方です。
目次
1.農業は産業なのか?生業なのか?
この本を読んで最初に感じたのは「農業・食を甘く見ていた」ということだ。
都会でパソコンを相手に仕事をしているとどうしても表面的な体験に頼って行動してしまう。1回だけ試して、「良い」か「悪い」を判断したり、すぐに芽が出ないともうダメだと諦めてしまったり、、、
この本の冒頭で
星さんは (略) ひと月かけて、幼い林檎の実に丁寧に十七万枚の袋をかけるというのだから、気が遠くなるような仕事である。
農から明日を読む 巻頭言より
という記事を読んで息を飲んだ。1000枚くらいまでは何とか想像がつく。
- どれくらい飽きてしまうか?
- 途方もないと感じるか?
- どれくらい疲れるか?
- どれくらい集中力が落ちてしまうか?
それが十七万枚と言われてしまうと想像すらできない。都会では人を褒めて、モチベーションを上げることが大事だという。農家の人が林檎に袋を一万枚かけたところで誰が褒めてくれるのだろう?
農業を情報処理産業や工業と同じような産業とみなしてはいけない。読めば読むほどそれが感じられた。
十七万枚の袋のような作業や草むしり、害虫駆除、、、いろいろな我々が想像もできない大変な作業をこなしても、台風・長雨・日照り・豪雪・不作・病虫害・旱魃・政策の影響・経済の影響などで一瞬で水の泡になることもあるという。
都会のビジネスマンが好きな「再現性」とはほど遠いのが農業なんだと改めて実感した。30年農業をしていたら、30通りの体験をする。同じパターンがやってくることはない。応用問題の繰り返しだという。
農業を都会の仕事と並列に考えたらそれこそブラック企業と呼んでも良いほど過酷かもしれない。ただ、それが産業ではなく、生業なのだとしたら意味が変わる。
私たちの孫の代がしあわせに生きていくための命をつなぐ役割だとしたら、産業的なものさしだけで農業を測ることはできない。
2.一方の消費者はどうだ?
一方の私たちはどうかというとそんな命とも言える食事を30%食べ残して廃棄しているという。年間2000万トンのその残飯をお金に換算すると11兆円だそうだ。
その額は日本の農水産業の総量と同じだ。
本の時代とタイムラグがあるだろうが、
我が国は毎年、2800万トンの穀物を輸入している。(略)それだけ大量の穀物を生産するのに1200万haの(外国の)農地が必要だとされる。すでに483万haまで減ってしまった日本の農地の2.5倍の広さである。輸出国の農家が汗水たらして生産した地の恵みを、私たちは工業製品の貿易で稼いだ金で買い求め、飽食ざんまいに明け暮れている。
農から明日を読む まほろばの里からのたより より
こんな状況なのに30%を廃棄しているとしたら、無神経にもほどがあるなと感じた。昔は「食べ物があることがありがたい」と考えていたのが我々だが、今は「付加価値」「インスタバエ」など何かが違ってしまった。日本の食料が足りなくなったら「YouTube動画」や「インスタ映えする写真」と交換してもらうのだろうか?
そんな違和感は多くの人が何となく感じているのではないだろうか?
自分が何を口にしているかわからない。それは流通の過程で何を混入されているか?海外からの輸送の過程でどんな防カビ剤を使っているか?
それがわからないだけでなく、テレビを見ながら、ゲームをしながらの食事ではそもそも口に何が入っているのかすら怪しい。
そんなことを考えながら読み進めていくと「農業は愛情なんだな」と感じるようになってきた。食べる人への愛。仲間、地域への愛。環境、自然への愛。そして、孫の代への愛。愛情がたっぷり詰まったのが農作物なら都会にいる私たちはこれで良いのだろうか?と考えてしまった。
3.労働がそのまま舞踏となる世界
「労働がそのまま舞踏となる世界」とは宮沢賢治の言葉だが、労働の対価がお金というさみしい考え方ではなく、働くこと自体に喜びとやりがいを感じることができる。それが農業なのだという。
真夏の炎天下で四つん這いになって、延々と草をむしる。(略)その作業が豊かな環境を作り、生命力を増進するための活動だと気付き、自分の体力と気力との兼ね合いをはかりながら、休憩を挟みながら続ける。
農から明日を読む 生命を育てる営みより ※文章を簡潔にするために要約しました。
もしこれが都会で上司の命令ならばこんな考え方にはならずに「ブラック企業だ」となるだけではないだろうか?と思う。本を読めば読むほど農業の本質の中にこれからの私たちにとって重要な物が隠れているようでならない。
4.高畠町有機農業研究会の凄まじさ
米作りにおいて「有機農業」がどれほど大変か、想像したこともなかった。
例えば「ノビエ」
除草剤を使わないので雑草が生える。中でもノビエ(野生の稗)は強敵だ。
旺盛に繁茂するノビエは夏場にかけて稲の背丈を追い越し、穂を出して細かい実を沢山つける。ノビエの生命力は強靭で、稔った粒つぶがいったん田面にこぼれてしまうと、7年間は発芽能力を持つという。(略)そんな風に4回から5回、田の草取りに入る。(略)土地の人々さえも「あれは、嫁殺し農法だ」と評した、、
農から明日を読む まほろばの里の小さなくにづくり より
「ノビエ」という言葉を聞いたことがなかったので、調べてみた。除草剤などで生えてこなくすることはできるようだが、有機農業では薬を使わない。手でノビエを抜こうとしても初心者には稲と見分けがつきにくいのだという。そして、7年は発芽するという生命力。これを手で抜くだけで対処するなんて、、、と息を飲んだ。
冷害に負けなかった有機農業の稲
過酷な話はきりがないほどだが、1976年 1980年〜1984年の冷害の時に奇跡が起こった。有機農業の稲が立派に生き残ったのだ。
よく肥えた土の一握りにはミミズとか目に見える小さな生き物たちだけではなしに酵素とか土壌菌など顕微鏡の世界の微生物が数億から数十億の単位で生息し、土中の小宇宙を作り出しているんです。その生命活動のエネルギーが温かい土の体温を生成するパワーなんですね。
農から明日を読む まほろばの里の小さなくにづくり より
稲が生き残ったのは有機農業ではない「死んだ土」よりも3℃も土が温かかったからだという。
本当の意味の共生
私は都会で耳にする「共生」という言葉はあまり好きではない。限定された人だけの「共生」はそれ以外の人にとっては「共生」ではないからだ。「コラボ」とか「アライアンス」のように言ってもらったほうがしっくり来る。
この本を(まだ前半だが)読んで、「共生」の意味がわかってきた。
薬品で土を殺し、微生物を死滅させて作物を育てる。
育てている人たちが協力し合っていたとしてもそれは「自己満足の共生」「自然や弱者への強制」な気がする。ミミズも微生物も自然全てを生かして、その一部として謙虚に関わりながら「共生」する。これならしっくり来る。
別の場で高畠町の関係者に聞いたはなしだが、世界中の農地は死んでいるのだという。有機農業をするには土を殺してはいけない。自然を殺してはいけない。全てを生かして、協力するところが「共生」なんだと思ったらとてもしっくりきた。
5.消費者と生産者のつながり
高畠では有機野菜に関心が深い人たち、特に都会の人たちと強いつながりがある。消費者は生産者の大変さを理解して、時には草むしりを手伝いに行く。そこには顔が見えるつながりがあるし、愛がある。やっぱり農業って愛なんだなと私はまた思った。
都会の人は自分のことで精一杯。電車で隣に誰がいるか?困っているか?すら気づけないレベルにまで退化している。スマホや雑誌のほうが大事なのだ。そんな人が今食べているお米や野菜がどこから来て、どんな愛が込められているかに想いを馳せることはあまりないかもしれない。私もそうなってしまうことがあるからこそ、その顔が見えるつながり、愛情や感謝のつながりの輪に私も入ってみたいと感じた。
6.眞壁仁(まかべじん)氏と農の力
「農から明日を読む」の中に眞壁仁という方が紹介されている。その人のエピソードに興味深いものがあった。
俺も人の子だから、時折深刻な悩みや創作上の壁にぶつかることがある。そんな時は夜中に裏の畑に出て、両手でガバッと土を掴んでみるんだ。しばらく掌に土を握りしめているうちに、ふっと閃くものがあって、迷いから醒めることが度々あった。土の持つ不思議な力だね
農から明日を読む 生命を育てる営み より
確かに土には何かがある
私はメンタルケアの仕事をしているが、千葉県の農場にお邪魔した時も山梨県の忍野八海で農業をさせていただいていた時もこれに通じる感覚を感じたことがある。正確にはメンタル不全で動けない。ひきこもりで家から出られない。と言っている人たちが土に触ると笑顔になり、エネルギーが湧いてきて、動き始めるのだ。
資本主義のゲームつまり、経済活動や学校教育に疲れてしまった人は天が与えてくれた自然に還ったら良いのではないか?と漠然と感じていたが、眞壁氏のエピソードを読んでその時の発想が蘇ってきた。
自然に還り、土に触れたら人は元気になる。
これが真実だとしたら、高畠の生きている土に触れて欲しい。この本を読み進めるうちにそう思うようになった。自分が触れたこともないのに「高畠の土」を推薦するのは良くないな。
高畠町視察
3月に学校が春休みに入ったら、山形県高畠町に何泊かしに行こうと思う。今、現地の人や農業の第一人者、行政の人、都会と高畠町をつないでくれる人と現地でお会いする算段を進めている。現地の高ミネラル食を食べ、地元の方と一緒に料理を作り、できる範囲で土に触れる。
「自宅にひきこもるなら高畠にひきこもれ!」と言えることがわかったら、メンタル不全のサラリーマンやひきこもりの学生をどんどん紹介して欲しい。第二回、第三回の山形県高畠町訪問の時には是非一緒に行って欲しい。
つづく
課題図書はまだ何冊もある。今回は速読せずに丁寧に読んでいるので、1/3程度でもこれだけの記事になってしまった。
学びを深めて、予習をしなきゃ!